桜沢の判断力の7段階
それを見ると第七段階目に最高判断力とある
それを一見した人はそれを目指せばよいことに直ぐ気付くだろう
そして、その第七判断力を最初から実践するという無理・苦行を行うことになる
頭の良い人であればあるほどそのような誤りに陥ってしまう
なぜ「段階」と呼ばれているのか、その意味を理解しなくてはならない
一番下に来るのは盲目的・機械的判断力
何の判断もなく、ただただ快楽、欲求に従うままである、最も低次元の判断力
次に来るのは感覚的判断力
いわゆる優れた直感ではなく、劣った直感である
5感に頼った判断力で、一見すると誰にでも共通な感覚に訴えるため共感を呼ぶが、感覚に囚われ第6感を全く無視した判断力であるため、低レベルに留まる
感情的判断力は感覚で受動したものを表に向い表現する、能動的なものである
たとえそれが内なる感情であろうとも外なる感情であろうとも、その表現において採る判断の結果の表象であるのが感情的判断力である
簡単に言えば感情の起伏が激しいことそれ自体と、たとえ激しい感情起伏であっても調和のためのコンパスがない無秩序の状態は感情的低判断だとみなしうる
逆に感情の起伏を自らの陰陽というコンパスによりコントロールしうる物がこの段階における判断力を持つものといえる
次に来るのは知的判断力である
知性が優れている者、頭がよいと一般に言われている者が該当し、いわゆる学術的な頭の良さ(アカデミック・スマート)について言える
よく考える者、感情の根源を探り、されに対処できる者は往々にして頭でその感情を対処しようとするが、それはこの段階における判断力としては低い
むしろ、感情をあるがままに受け止め、それの起伏・浮沈を自ら頭によるのみならず、体感として楽しみ判断することが出来る者こそが、この段階において高判断力を持つ者と言えよう
アカデミック・スマートに対比し、ストリート・スマートという言葉があるが、それが次の判断力の段階、社会的判断力である
社会的判断力とは知的であるがそれに囚われず、より巨視的に自らを社会の一員として捉えることが出来る力がある者をいう
この段階の社会を自らの活動範囲における社会、つまり知的に把握しうる範囲においてのみの社会に限定している内は低判断力のままである
むしろその範囲を超える陽性さを持ち、みずから前に前に進み、自らの無知を正直に認め、社会の範囲を広げていく気骨がある者にのみ、この段階におけるより高次の判断力を養う土壌があると言えよう
そのためには自ら経験という連続的挫折と復活を経る必要がある
社会をより巨視的に、より全体的に、そして客観的に判断することができるようになれば、そこで活動している人間という存在の未知なる神秘を発見することになる
そしてその神秘さゆえに、現実的な世界を内包するさらに高次の超越的な世界が存在するのではないかと疑い、疑問を持ち、好奇心を喚起されることになる
それはより哲学的、思想的な判断力につながり、この現実界を動かす根源的な原理・原則とは何か、という問題を意識する段階に到達する
その結果、より神秘的で見えない存在、5感という感覚ではわからず、知的に考えてもその範疇をこえ、社会を動かす何かの存在を認めざるをえなくなり、その何かを求め、過去の巨人の思想・哲学にそのヒントを求めようとする
その方法は読書を通じてかもしれないし、過去の巨人を知る人物との会話の中にそれを探ろうとするのかもしれない
この思想的な判断力を自らの経験により向上させていくと、この世が全て対立・相補的な世界の産物であることに気づくにようになる
そして、この世界を支配する原理・原則の変数として機能する陰・陽という存在を認めざるをえなくなる
また、この世界がどこまで行っても有限であり、全てはあらゆるものの因果関係に束縛されるということを自覚することになる
その経験を経ずして、第七の最高判断力には至らない
第七の段階において、そこはもはや有限を越え無限に、相対を越え絶対に、陰陽という2変数を越え一の決して変わることのない一元論に集約されることになる
この最高判断力を持つ者はこの現実界を陰陽と言うコンパスを使い自由に楽しく生きることができる
それは目に見える形でもあれば、見えない形でもある
全ては表があり裏があり、表が大きければ裏も大きく、普遍的に変わらないものは決してなく、全ては相対的に移ろい変わるものであることが分かる
それを自ら自覚するためには経験をしなくてはならない
頭だけで分かっているうちは第四段階に留まる
全ての判断力の段階にも陰陽があり、その段階にも段階がある
そしてより高次の判断力に至る唯一の道は、地道にそれを自らの人生において経験していかなければならない
決して焦ることなく現実・相対世界の判断力の段階を高めていくことが必要である