2011/12/22

本能と欲望の話

人間は生まれたときに、既に死ぬ運命にある。

死なないための延命措置が科学の進歩のおかげで著しく向上しているが、誰が人間の生死を決めるのか。

本人が死にたくないと望む場合と、家族や友人、知人などが死んでほしくないと望む場合とでは話は違ってくる。死にたくないと望む場合、それを本人のエゴと呼び、死んでほしくないと望む場合、それもエゴとよぶ。いずれも自然界の摂理を違反しようと高らかに表明しているように感じる。そこで個個人の考えを他人に押し付けるという行為は権利を侵害と考える人もいるが、権利というのは人間が造り出した社会と法律という枠組みのなかで共に生きるために考え出した知恵であり、本来の個々の人間という存在に備わっているモノとは関係がない。そのモノの成り立ちとなっているのが宇宙の秩序であり、何故、人間は生きているのか、どこに向かっているのか、という問題に突き当たる。

人間と動物は違う。その決定的違いは母子の関係をみて一目瞭然である。動物の母子は産後しばらくするとその関係は断絶し、個々の個体としての生を歩む。確かに、我々人間の視点から観て類似の点を動物の母子関係にも発見することができるため、そのような意見に異を唱える人もあるかもしれないが、それはあくまで人間の視点からもものの考え方である。人間の母子における産後の関係は動物とくらべて非常にちかい。出産後の赤ん坊を母親はすぐ抱く。そのことで母子の心が通い合う。ところが、いわゆる人間の主観的見地からの証明により、産後、母子をすぐ引き離し、その心の通いを妨げるエゴが蔓延している。もちろん、そのような手段を取らない選択権は個個人にはあるが、その手段を歪曲化する形で誇大宣伝しているのが現状ではないか。我々は資本主義社会に生きている。資本主義社会は金がモノをいう社会である。その金を使い、当時に権利という法律のベールで覆い、あたかも民主主義の多数決の論理で大衆を盲目のまま扇動しているのが、その社会の本当の姿であろう。金融危機などやさしいものであろう、なぜならば、その行動はあきらかに、資本主義の醜い面を浮き彫りにしている。強欲資本主義とはよく言ったものである。

人間には欲望がある。その欲望を認めるところからスタートしなければ話は始まらない。問題はその欲望の足るを知るということである。それが足るのか足らないのか、その線引きは難しい。というのは本能と直感で感じる必要があるからである。言葉を使うようになったことが、人間から本能を奪うようになったという考えもある。言い訳をする知恵を身につけてしまったからである。

「あの人は本能のままに生きている。」

この表現を肯定的、否定的、どちらに解釈するのか?おそらく、上記の表現はあの人には理性がなくとんでもない人だと解釈する人が大半であろう。なぜか?それを知らずの内にそうであると思っている、あるいは思わされている。それが教育というものの本当の驚異であり、その教育の全てはまず母子との関係から、家庭からスタートする。

如何に教育が必要であり、重要であるか、母子との関係が大切であるか。

学校教育、現代医療、西洋科学に対し、短絡的な疑問を投げかけるのもどうかと思う。すべての人は元々一人であり、最初の共同体が家族である。一人の人の力で大きな変化を生みだすことは難しいが、協力すれば何とかなると考えるのは、あながち正しいのかもしれない。まずは、家族を大切に、家族の中の調和を大切に。そのために食卓を囲む事の重要性を今ほど、強調せざるを得ない時代はないのではないか?その表現自体、すでに古びたものとなってしまっているかもしれないが、本当に心から出た言葉というのはあながちシンプルかつ繰り返し述べられるものなのではないか?なぜなら、物事の本質は本来シンプルである、無の中に全てがあるからである。それを理解するためにマクロビオティックを実践する。その実践は個個人からスタートし、それを家庭の中で証明していかなければならない。One Peaceful Worldの実現は個個人の意識と家庭内の家族の教育と協力が不可欠であろう。家族でも難しい人間関係。それを全く違う家庭環境で育った他人と培っていく作業は、なんと難しいことであろうか。結婚は2人の間の問題だけではなく、脈々とした歴史を刻んできたお互いの家系の問題でろう。ただ、そこに2人の感情の交流がなければ、何もはじまらない。ちょうど出産後の母子関係のように。