2013/05/27

Second Responders(セカンド・レスポンダーズ)

An Interview with William Spear
ウィリアム・スピアーズ氏とのインタビュー

(By Julila Ferréジュリア・フェレー)



 ウィリアム・スピアーズ氏は1970年代から久司道夫氏と共に旅をしながらマクロビオティックの指導を行い、多くのイースト・ウエスト・センターにその創設当初から関わってきました。彼の著書“Feng Shui Made Easy”はアマゾンで購入することができます。現在、彼はFortunate Blessings(フォーチュネート・ブレッシングス)という名のNPOを運営しており、大規模な自然災害に遭遇した地域を旅しています。201210月、彼にインタビューする機会を得ることができたため、彼の近況をご紹介します。
 
ジュリア(以下J):お会いできて大変嬉しく思います!何年もの間、マクロビオティック界で働いて来られ、多くの救援活動もされて来られました。これまでの活動の経緯とマクロビオティックがあなたの人生にもたらした影響を教えて下さいますか?

ウィリアム(以下W):マクロビオティックは常に私の人生と共にあるもので、私の活動のあらゆる面に影響を及ぼしています。自分が生きているということを考えるのと同じくらい強く私自身とマクロビオティックを同一視しています。私たちは無限の世界のほんのわずかな一部しか分かっておらず、それを勉強することがマクロビオティックだと思います。
             
J:マクロビオティックを始めたのはいつでしょうか?

W1960年代の後半にマクロビオティックについて読み始め、陰陽原理という道的な思想に非常に道理を感じました。ただ、個人的にマクロビオティックを真剣に実践し始めたのは、1970年代前半に健康を崩してからでした。 

J:何があったのですか?

W:腎臓疾患を抱えることになり、透析が必要と言われました。透析なんかまっぴらだと思い、医者の命令に背き真夜中に病院を抜け出し、真剣にマクロビオティックを始めました。

J:なんということ!どうしてそんなことをしたのですか?

W:話せば長い話で、それはデンマークでバンドをやっていた頃に遡ります。

J:音楽活動をしていたのですか?

W:いや、一緒にいたバンドはグレートフル・デイズ(Grateful Dead)で、彼らのヨーロッパ・ツアーのPVを撮っていました。実は、ローリング・ストーンズのマネージャーが自分を病院に迎えに来たんです。彼はマクロビオティックをしていて、私をコペンハーゲンに住むバート(Birte)という女性の元へ連れて行き、そこで彼女の食箋に従い食事を食べ始めました。その当時私は22歳で、そこには数年いました。

 バートはGOの弟子で、ミチオと知り合う前にGOのことを知りました。その後、アメリカに戻り、ミチオとアベリーヌ、ヘルマンとコルネリアにも会いました。

J:指導を始めたのはいつからですか?

W:ヨーロッパに行く前に、無料診療を始めて、自殺予防ホットラインの会社で働いていました。そこにはボランティアの医者や看護婦がいて、薬物カウンセリングについて沢山のことを学びました。実際、薬物カウンセラーとしてウッドストックに行ったことがあります。何年も経ちデンマークから帰った後、ワシントンDCで薬物・アルコール・リハビリ・カウンセラーの職に応募し、そこでジョアン(Joan)と出会いました。既に彼女はミュージカル・シアターの会社でミュージック・ディレクターの仕事をしており、彼女と恋におち、これまでずっと一緒に暮らしています。やがて、エール大学と提携しているコネチカット州ニュー・ヘブン近くの小さな町に移り、「病気と共に生き、死ぬセンター(Center for Living with illness and dying)」での仕事を手にしました。この仕事は1977年に初めて携わった終末医療の仕事でした。

 これを皮切りにその後何年にも渡りミチオ達と共に仕事し、マクロビオティックの初期の指導者たちとのサマーキャンプや、アメリカやヨーロッパでのサマーカンファレンス、あちこちを旅しミチオ達を支え指導することになりました。その後すぐジョアンと私はコネチカット州のミドルタウンでイースト・ウエスト・センターを始め、(イギリスではビル・タラと共に始めました)地域健康財団(Community Health Foundation: CHF)の指導者の一人になり、CHFがクシ・インスティチュート(Kushi Institute: KI)を設立しました。1979年にアメリカでKIが設立されると、ミチオは精力的に指導にあたりました。その頃にKIの指導者たちの一人でいれたことは幸運でした。

 カウンセリングと指導にあたるため毎週ニューヨークを行ったり来たりし、たくさんの人がエイズ(AIDS)に罹っていました。最初の頃それが何の病気か誰にも分からず、来る人の大多数がマクロビオティックに最後の望みをかけていました。残念ながら多くの人が亡くなり、がん終末期の人と多数であったことで、そうした人たちが安らかに死ねるように手助けをしようと考えるようになりました。

J:何をされたのですか?

W:エリザベス・キューブラー=ロス(Elisabeth Kübler-Ross)に連絡を取り、彼女のスキルを教えてもらおうと考えました。自分の能力を過信していた私は彼女の助けを少し借りたいと傲慢にも言っていました。彼女から現実的に活かせるスキルを学ぶのに5年も彼女の元で勉強するとは夢にも思っていませんでした。彼女は私の荷物を片付けること、私の教条主義的な認識を何とかすることに大きな関心を寄せており、助ける方法自体をあまり教えてくれませんでした。これがキッカケとなり、肉体的なケアから、精神的なケアや典型的なマクロビオティックの定義から外れた、ある種のケアに関心をシフトするようになりました。本当にどうしようもないくらい気持ち的に精神的な方面に進みたくなり、エリザベスのワークショップで彼女に初めて会った時の気持ちを思い出しました。初めて彼女に会ったことをハッキリと覚えていて、彼女が着ていたTシャツにはこう書いてありました。

「私は大丈夫じゃないし、あなたも大丈夫じゃない。だから大丈夫。(I’m not Okay, and you’re not okay, and that’s okay)」

J:何か変化が見られましたか?

W:進行性退行変性病のために命を落としかけている患者さんを抱えるホスピスで働き始めました。終末医療において食物は重要な要素であることは事実ですが、私たちが意識的に抱いている心理的、精神的(必ずしも宗教的ではない)な側面におけるやり残した事(unfinished business)をケアすることも大切です。(患者さんの)人生の意義や目的、骨肉の問題、カウンセリングの際に無条件にそうした患者さんと共に場を共有することは単なる死に対するケアを超えたものがありました。加えて、The Passage(ザ・パッセージ)という5日間に渡る在宅ワークショップも開催しました(現在も開催しています)。

J:マクロビオティックから学んだことはどう役立っていますか?

W:公開講座の内容以上にミチオからの影響が大きかったと思います。彼と旅することでミチオという人物を知ることができました。彼は非常に人間的で、私たちと同様に表と裏があります。夜遅くまで起き、ソバを作り、人生について語りました。気取っているところはどこにもありませんでした。

 彼の指導は今も大切でインスピレーションを得られますし、彼が明示化したマクロビオティック食事法は多くの人々を救いました。ただ、彼が指導の全盛を迎えていた時、ヘルマンと同じく彼も人間であることの本質的意味について多くの時間を割き、1週間に何回大根を食べたらよいか等の話は余りしませんでした。ミチオもヘルマンも個々人の発達と、物事の大きな枠組みの中における個人の位置付けについて話していました。それは私が非常に魅力を感じたグレート・ライフというものでした。

 ある時、ミチオが感謝について話していたのを覚えています。彼はお辞儀をして「有難う」と言い、私たちは互いに「いえ、こちらこそ有難う」と何度も繰り返し言い合っていました。すると彼は言うのを止め、次のように言いました。

「指導者は彼の与えた情報を誰かが使うと、その人に対して多大な感謝を負うことになるということを分かってほしい。もし指導者が世の中に情報を出し、それが何の役にも立たなければ、それは恥であり彼(女)は無力感にさいなまれるでしょう。あなたは私の情報を活用し何かしてくれている、だから感謝しているのですよ。」

J:ミチオは自分の生徒が他人の役に立ってほしかったのですね!

W:その通りです。ミチオはよく、私たちがマクロビオティックを超え、GOを超え、ミチオ・クシを超え、陰陽を超えて、世界でただ自由に生きることの必要性を説いていました。私がそのことを理解するのにだいぶ時間がかかりました。

J:でも今はマクロビオティックで学ばれたことを活かし、より意義のある、必要に応じた方法で周りの人を助けてらっしゃる。それ以前以上に救援活動に身を投じるようになった経緯を教えてください。

W1990年代初頭、ロシアに足を運び、西洋人として初めてチェリャビンスクに行きました。チェリャビンスクはソ連の原子力核兵器の中心地であり、非常に機密性が高い閉鎖された場所でした。そこでは弾丸、銃、戦車、ミサイルが製造されており、放射性廃棄物もそこに保存していました。

J:どうやってそこに行ったのですか?

W:講演のためクロアチアに招待された際、ヨシップ・ブロズ・チトー(ユーゴスラビアの政治家)の生誕地クムロヴェツでの大きなサマーカンファレンスで2人のロシア人の医者と出会いました。2人の医者は夫婦で、私の仕事が紛争解決、ホスピス・トレーニング、終末医療ケアであったため、ソ連に来ないかと言われました。彼らの誘いに対して私は完全に彼らと繋がった感覚を持ちました。チェリャビンスクに行くなど正気の沙汰ではなかったのに、私が口を開いて出てきたのは「喜んで」という言葉だったからです。

 その6か月後、共産主義が崩壊し、モスクワに飛び、チェリャビンスクに向かいました。ビザもなく、そこにどうやって行ったらよいのか分かりませんでしたが、結局入ることができました。その後、長く退屈な時間を経て、約1万人の子供が放射能の毒により亡くなった病院に連れていかれました。チェリャビンスクはチェルノブイリ以上に放射能の被害が甚大な場所でした。マクロビオティックと緩和ケアが有効かどうかを最大限確認できる場所がそこでした。

 そこにいる間、医療学校に連れていかれ、そこで約400人の医者たちに味噌汁、海草、全粒穀物や豆の重要性を話しました。私を招待した2人の医者はその何年も前から既にマクロビオティックを始めていましたが、その経験から自分の人生と自然災害、そして発展途上国における政治汚職の関連性を感じていました。

J:ご自身が最適な場所と時間にいると感じましたか?

W:ええ、まさにその通りだったと思います。最適な場所と時間に自分が動いていると気づきました。それ以来、さまざまな災害が起こり、慈悲隊(Mercy Corps)や国境なき医師団(Doctors without borders)など多くの団体と現場でのやり取りを重ねました。

 ある時、こうした団体がトラウマに対するケアを提供していないことに気づきました。それが活動の目的ではなかったからでしょう。団体はこぞってトリアージ、すなわち、緊急事態に優先的な医療ケアを提供することに集中していました。災害後に学校や家、店などを立て直すこと以外の活動はほとんど何も行われていませんでした。こうした出来事が起こった際に子供に何が起こるのかという公式を作成し始め、地球規模の非常事態やトラウマを抱えた子供に対するケアへの新たなアプローチを構築しました。

 災害の初期段階、つまり緊急対策が必要な段階では、大きな団体が関与し、食物、水、避難所などを被災者に提供し安定化を図ることを支援します。それにより被災者は見かけ上は安全を確保することができます。これは特に子供にとって重要な意味を持ちます。自分たちはどこで寝て、次の食事は何で、友人や家族は何処にいるのかが分かる必要があります。自分たちは安全だという感覚を取り戻し始めると、別の段階に移行できます。(このプロセスについて説明する前に次の段階を指摘するとすれば)それは再建と呼ばれる、瓦礫を取り除き、自分たちの家に帰れるように支援する段階がその次の段階にあります。

A:2段階があるのですね-物理的な安全と建物の再建

W:その通りです。でもその間に介在する別の重要な段階があるようなのです。快復と呼ばれる段階です。快復とは、私たちの感情的反応に対する内なるニーズをケアすることであり、エリザベス・キューブラー=ロスの唱えるやり残した事(unfinished business)という考えと関係があります。快復とは事実、被災者が「外側の」安全以上のものを手にすることをサポートする第2の段階であり、トラウマから快復するのを助ける段階です。それを経て被災者は、地域社会と再建を統合することができるのです。

 私は災害について深く勉強し始め、トラウマとは何か、PTSD心的外傷後ストレス障害)とは何かを無双原理(PU)の視点から理解するようにしました。自然災害後のPTSDの多くは予防することができます。90%の子供は長期間にわたる障害を被らずに社会復帰できる柔軟性と対応メカニズムを持ち合わせているからです。但し、8-10%の子供はより深刻な影響を被り、自分の感情を押し殺してしまうため、それが後に皮膚疾患や消化障害、喘息などの兆候として顕在化するのです。これがPTSDにおける障害であり、家族やヘルスケア・システムへの多大な重荷を負わせているのです。

J:第2の段階では何をされるのですか?

W:そうですね、時間を2004年の12月に早送りしましょう。巨大地震と津波がインドネシアを直撃した時、私は妻と3人の成人の息子と自宅で休暇を過ごしていました。テレビの映像を見て、その災害に恐怖を覚え、虚脱感を覚えました。それはこれまでで最大の自然災害であり、30万以上の人が亡くなり、つい最近の日本で起こった災害以上の死傷者を出しました。テレビで3日間この災害の経過を見ている間、私は自分がそこに行くと確信していました。長男のジョナは自分の飛行機代を確保するために財団を立ち上げ、アメリカとヨーロッパからの様々な人物が仲間にいるメンタル・ヘルスのチームと私と共に現地を訪問しました。わずか数週間で、私たちはスリランカに着きました。

J:どうしてスリランカに向かったのですか?地震はスマトラで起こったはずでは?

W:震度9.2の地震はスマトラ沖の海岸で起こり津波が発生し、インドネシア中に広がり10万人が亡くなりました。スリランカは3万人以上の命が失われた2番目に被害が大きかった場所です。スリランカは島国で、陸と繋がっているタイとは違います。タイの首都はバンコクであり内陸にあるため、津波がタイも直撃したことも事実ですが、政府は迅速に対応することができました。スリランカの首都コロンボはその反対で、全てが倒壊していました。コロンボは水に浸かり、スリランカ経済(観光と貿易)のほぼ全てが麻痺状態になりました。沿岸地域近くのほぼ全てが壊滅し、政府建物の70%が完全に倒壊しました。

 そこに到着すること以外にそれほど多くの計画を立てていませんでしたが、到着すると全てが開けました。以来、私たちの一団は7回現地を訪問し、私たちの救援計画は現地の学校に導入されました。私たちの活動に関する研究が行われ、私たちが介入した結果PTSDが発症した事案は全く見られませんでした。

 およそ16カ月後、震度8.2の地震がジャカルタで起こり、私は一番下の息子ミカを連れて現地を訪れました。ジャカルタの多くの地域で私たちが最初の救援者でした。地震発生後7日間も取り残されていた場所もありました。誰もそこに行くことができなかったのは、その地域の人口分布がまばらで、村にたどり着くことが難しく、人里離れていたからでした。悲惨な状況が広がっていました。地震の全体的な衝撃は震度(地震の規模)と深さで計測されます。震度8.2、深さ10マイルと震度8.2、深さ100マイルは全く違います。今回の地震は非常に水面に近く、遠く離れた村々があるジャカルタを震撼させました。私たちは4WD車と運転手を雇い、まだ誰も足を踏み入れたことがない村へ向かいました。村では子供たちと遊びました。これほど直ぐにそこに着くことができたのは全く信じられませんでした。

J:子供たちとは何をして遊んだのですか?

W:五行説を基に慎重に考案したエキササイズを開発し、抑圧された感情にそれを当てはめました。子供にとってはエキササイズも遊びの一環のようでした。漢方を処方し、身体を癒し、恐怖、悲しみ、怒りを排出させました。子供は基本的に飛び跳ね、大声を出し、蹴飛ばし、笑い声を上げ騒ぎ、円を作り走り回っていました。身体全体を縮めて、広げて、鉄になったり(ジッとしたり)、麺になったり(リラックスしたり)することで、柔軟性を取り戻していきました。とても楽しいエキササイズであり、子供たちはそれを気に入ってくれました。私たちはこのマニュアルを別の場所でも使うようにしました。

J:マニュアルを作れるのですか?

W:はい。多くの言語で私たちのマニュアルをダウンロードできます。災害には約3ヵ月の移行期があり、その間、私たちのような介入活動は非常に大きな意味を持ちます。90120日の期間でこうした問題を軽減することができれば、後に問題を長引かせずに客観化することができます。(災害発生後)2週間で現地に入る必要はないのです。実際、子供がまだ怖がっている際に子供と協働で何かすることは難しいため、現地に入らない方が賢明でしょう。しばらく経ってから入るほうがよいのです。

 スリランカでは、私たちは直ぐ医療学校に向かい、それぞれの地域にいる70人のインターン医師と共に働きました。彼らは私たちが子供たちとゲームをし、様々なプロセス・ワークを教えていた学校に来ました。私たちはマニュアルを伝え、彼らが習ったことを実演するように指導しました。それから、彼らは自分たちの地域に戻りスタッフに教え、スタッフは村に行き親や教師にマニュアルを伝えました。親と教師はやがて子供たちと遊び始め、1週間で35,000人の子供にマニュアルを伝えることができました。

 これはものすごい数ですよ。私たちの取り組みが10万人の子供に影響を与え、10%もの割合で子供がPTSDを発症させるのを防ぎました。そして今、日本の現状へと時間を戻してみると、2百万人の子供が震災の影響を被っていますが、私たちはまだその表面にも触れていない状態です。

J:日本にはいつ行かれたのですか?

W:津波の発生後47日後です。東北に行きました。私たちの救援計画は津波で流された多くの村や市の学校制度に組み込まれました。東京と仙台でトレーニング・ワークショップを組織した後、東北へ向かいました。

J:そこにいる人たちはどのような影響を受けていましたか?

W:壊滅的な状態でしたが、第三国(途上国)ではないためその影響は違って見えました。日本はドイツとアメリカに続き、世界で第3番目に大きな経済国ですから。

J:違いはどのような点にありましたか?どこに行こうと津波はトラウマになりますよね?

W:同じような点はありましたが、裕福な国に行きますと自分たちの感情を抑えようとするスピードが速い気がします。ビジネスは直ぐに正常に戻り、お店も開き、社会のインフラは基本的にダメージを受けていません。生活に何ら変わりはないと振る舞うことができます。

 経済的な格差があると、人々の自己表現の仕方にも違いが出てきます。自己表現が開放的な場所もあれば、感情を抑える場所もあります。日本の子供が少し違うのは、子供が違うのではなく、その場にいる大人のためです。そこに気付くのにすこし時間がかかりました。3つのグループ-5-7歳の児童、②8-12歳の少年、③13-16歳の少年-のうち、大人をゲームから除外すると①と②のグループとの活動が最もうまくいきました。彼らは恥ずかしがらずに叫び、笑い、飛び跳ねていましたが、大人が戻ってくると静かになっていました。③グループの子供は既に「適切に」振る舞おうとしており、大人のように振る舞おうとしていました。以上が日本の場合ですが、スペインやメキシコや他の暑い気候の国やまだ発展途上の国など、もともと感情表現が大げさな国では、子供はどう振る舞うのでしょうね。

J:ご自身の活動の幅を広げていくと前にお話しされていましたが、今はどのような活動をされているのですか?

W:結局、今行っている仕事も全くもって驚くようなことです。常にやりたかったことはフォーチュネート・ブレッシングスというNPO活動を地球規模の救援活動にしていきたいと考えていました。私の真ん中の息子ジョシュアは「若いグローバル・リーダー(Young Global LeaderYGL)」の一人であり、世界経済フォーラムのメンバーです。彼とYGLのメンバーは社会的に意義のある活動をたくさん行っています。社会メディア戦略家である彼は、大企業向けに社会メディアをどのように有効に使えばよいのかということをアドバイスしています。たまたまエチオピアにいた時に出会った女性が国連ミレニアム・プロジェクト向けの資金を募っており、非営利での資金調達に関するコースをハーバードで開いていました。

 彼が戻ってくると、私にハーバードでの彼女のコースを受けてみたらと提案してきました。願書を受け取り見ると、現在抱えているより多くの役員やアドバイザーに加え、数百万ドルの予算が最低限必要だと知りました。自分が完全にこの内容に値しないことは明らかでしたが、彼女に自分の活動を話すと関心を寄せてくれ、コースに応募すべきだと言ってくれました。

 20人の枠に対し500人の志願者がいましたが、信じられないことに合格することができたのです。コースに参加している他のメンバーは皆すごい方々で、ノルウェー平和研究所(Norwegian Peace Institute)の代表、クラーク大学の学長、ロビン・フッド財団の方々、Xプライズ財団、ニューヨーク公設劇場、グローバル・ヘルス団の代表などがいました。その一方で私はフォーチュネート・ブレッシングスに属し、そこで何をしているのか考えている人で、他の方々は大きなミッションと組織を抱えているという始末でした。

 私が合格した理由はコースの2日目に分りました。部屋にいるほぼ全ての人たちと私の違いは時間でした。大抵の参加者は30代で、平均してわずか約5年間で自分たちがしていることを達成していました。コースの代表で、ジョシュアがエチオピアのバスで出会った女性は、このグループでの私の役目を大きな一団の中で捉えており、私という個人の視点では捉えていませんでした。事実その通り、私は非常に大きな学びを得ることができ、同時に沢山の若者へ多大な貢献をする機会に恵まれました。

J:ご自身の仕事を変えようとしているのですか?

W:そうです。いわゆる「ビジネス」というものではないという点を頭に置きつつ再構築をしているところです。私たちは完全に非営利ですし、事実この仕事から一銭も懐に入れたことはありません。ただ、5カ年計画を作るという意味や資金を指数関数的に募ることの意味とはどういうことかを理解しています。今まで読んだ以上に役員、寄贈品、助成金について学んでいます。また、たいていの人にとってフォーチュネート・ブレッシングスという言葉は全く意味のない言葉だということに気づきました。元の元に戻り、自分たちの団体を何と呼びたいのかを再発見しないといけなかったのです。そして今、私たちは新しい名前を持ちました。セカンド・レスポンスと呼ぶ、フォーチュネート・ブレッシングスの一プログラムです。

J:セカンド・レスポンス!素晴らしい名前ですね!

W:周りの人から自分たちの活動について聞かれた際に、セカンド・レスポンダーズ-メンタル・ヘルスを専門とするチームを組織し、自然災害によりトラウマを抱えた子供がいる場所に向かい、それがPTSDになるのを防ぐ活動を行う団体-だとハッキリと言えます。1文ですぐに理解できます。それ以前フォーチュネート・ブレッシングスに対する質問に答えた際には、3パラグラフも使う必要がありました。

J:もっと多くの団体を被災地に送りたいと考えていますか?

W:2つのことをしたいと考えています。先ず、この仕事のやり方を変えようとしています。ある出来事に対応するのではなく、それが起こる前にそれに対応できる能力を造ろうとしています。つまり、チリ、イタリア、インドネシア、中国などに何らかの出来事が起こる前に行き、災害が発生した際に何をすればよいのかを教える予防活動です。対応の仕方を教えるのは非常にたやすく、訓練はわずか1日で終わります。

J:メンタル・ヘルスの観点から地震予防をするようなイメージでしょうか?

W:その通りです。トラウマ予防ですね。事前にできる緩和・予防策として、まずはそれを実行に移したいと考えています。実験というよりもむしろ、地域社会が緊急事態に備えて紙面で訓練を行うようなものです。騒いだり、あちこちジャンプしたりする必要はありません。マニュアルを読み、それをダウンロードすればよいのです。理想的には参加者とゲームを実際に行うことができればよいですが、必ずしも実行できるわけではないでしょう。

J:2番目は何でしょうか?

W:私たちの活動が発展するにつれ自分たちの力点を質に置いていくことです。真に「最高のサービス」である必要があります。その後、私たちの救援計画(プロトコル)を多数のスタッフと予算を持ちインフラを抱える国境なき医師団、慈悲隊、セーブ・ザ・チルドレンなどの団体に活用してもらえればよいのです。そうした団体がそれを一つのプログラムにできます。セカンド・レスポンスは、例えば国境なき医師団のセカンド・レスポンス・チームのような形で活用できるプログラムにすることもできます。既にこうしたことができないかと多くの団体と話をしています。

J:なんと素晴らしい経験と情熱でしょう!お話を伺い、私もその活動に関わりたくなりました。

W:私たちと一緒に来てください。毎回ボランティが必要ですし、世界中で訓練を積めば積むほど、皆さんを招待し学習してもらえます。災害により起こる出来事を目の当たりにするのは驚くべきことであり、大きな変革を生みます。それに、今後数年でまた別の災害が起こるかどうかは分かりません。ただ気候変動の兼ね合いで何かが起こることは分かっているのです。

J:災害がいつ起こるかは分かりませんよね。この考え方は多くの状況で役に立つ可能性がありますね。

W:トラウマ・ケアは真剣に考えるべきことです。最も大切なのは自分の役割以上のサービスを提供できるということです。私自身が現場から離れたのは、それが私の仕事ではないからです。私の仕事は、子供が自分を表現できる場を創造することであり、それを妨げている障害があればそれを取り除くことにあります。それは、カウンラセラーや外部の力ではなく健康的な食事が癒しの効果を持つというマクロビオティックと似ているところがあります。身体が自らを癒すのです。

J:周りの人を助けることで自分が助かるのですね。

W:それはファースト・レスポンスを超えたものです。ファースト・レスポンスとは安全の問題に対処し、被災者が安全であることを担保することです。セカンド・レスポンスとはそれを超え、その人が自らの命を取り戻すことを助けることにあります。それを内側から促すことにあるのです。私の新しい本‐Recovering Original Ability‐はこの考えについて書いてあります。

J:最後に1つ質問があります。あなたにとって人生の意味とは何ですか?人生の目的と意味の問題に関する経験が豊富なあなただからこそ、この質問はあなたに問いかけるのが最適だと思うのです。

W:人生の意味!すごい質問ですね。一つ、スリランカのある村を始めて訪れた際に救援キャンプで45日間過ごした時のジョナの話をしましょう。ジョナはカリスマ性のある若者で、村の子供たちは彼のような若者には会ったことがなかったため、キャンプ地を歩いている間彼の周りに子供たちがドット集まり、彼にしがみつき、指を握っていました。子供たちは最終的に彼をキャンプ地から連れ出し、おかしな袋小路へと連れて行きました。30分後に戻ってきた彼は厳粛な面持ちで、彼が見たものが何であれ、それを見て変わったことが明らかでした。それから私たちはトラックに乗り込み、子供たちは「バイバイ」と「ハローハロー」を連呼していまいた。彼らが学んだ英語はそれが全てということがハッキリしていました。

 キャンプ地からトラックで帰る途中、ジョナは頭を私の方に押し付け泣き始めました。子供たちは林を抜け、海が一望できる崖のある開かれた場所に自分を連れて行ったと言いました。子供たちは自分にこの素晴らしい景色を見て欲しかったのだと思ったそうです。でもその後、子供たちは四方に散らばり、そのうちの1人がジョナの手を取り、「お母さん、お父さん」と嘆き、地面の塚に膝をつけている子供たちの場所へと連れて行ったそうです。彼らはジョナに自分たちの家族の墓を見せるために彼をそこへ連れて行き、彼はそこに立ち、その子供たちの現実を味わいました。翌日、またその子供たちとゲームをし、楽しむことができました。

 誰もが死ぬ、それが人生です。あなたの両親は死に、私の両親も死んだように、友人も皆死にます。あなたよりも前に多くの人が死に、あなたの死に遭遇する人もいます。私たちは皆、その暗い喪失と悲哀という現実の場に行く必要があります。そこで人生の意味を発見する人もいるかもしれませんが、そこに意味があるとは思いません。そこに行き、そこから出て遊んだ後にその意味を見つけ出さなければならないのだと思います。その場所は余りにも不快で不幸であるため、そこに行かない人が余りにも多いように感じます。でも、なぜ自分はここにいるのか-それは遊ぶためです-ということを理解するために、そこに行くことは大切です。私はたくさんの人と共に泣き、それ以上の人と共に遊びました。泣くという経験があったからこそ、遊ぶことができ、それが本物となり、自分が豊かになりました。

J:暗い場所にいる恐怖を取り除くということですね。

W:そうです。だからこそエリザベスは素晴らしいのです。「私は大丈夫じゃないし、あなたも大丈夫じゃない。」私たちは人生の光を味わうためには、暗い場所に行かなくてはならない、ということを彼女は伝えたかったのです。自分が経験することを恐れ、それをせず、感情の暗闇に飛び込むことを躊躇している人が私たちの団体にもいます。でも、私たち一人一人は泥の中、暗闇の中で黄金を見つけることができるのです。暗闇の中に行くことで、泥が洗い落とされ、真の自己を発見することができるのかもしれません。

J:「だから大丈夫。」なのですね。どうもありがとうございました!

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 ウィリアム・スピアーズ氏は生涯現役の指導者であり、彼の明瞭さ、ユーモア、洞察はトラウマを抱えた数千という家族に影響を及ぼしている。40年に渡り、Elisabeth Kübler-Ross CenterやSogyal Rinpocheでの訓練を受け、また、健康に対する自然療法的アプローチや持続可能なライフ・デザインを指導している。東南アジア、中央ジャカルタ、インドネシア、サモア、日本、アメリカ北東部での自然災害に対する緊急対応として、ウィリアムと彼のチームは数百名にも及ぶメタル・ヘルスの専門家、医療学生、医者、聖職者、両親、ボランティア、介助者を訓練し、孤児やトラウマに罹った子供のPTSDの影響を緩和する活動を行っている。

 彼はベストセラー本Feng Shui Made Easyの著者であり、Be The Change: How Meditation Can Transform You and The Worldの特別寄稿者であり、新刊Recovering Original Abilityの著者である。3人の息子(彼らも活発的に災害救援の仕事に関わっている)の父親。コネチカット州に住み、長期にわたる子供の感情的・心理的な健全をはかる非営利団体フォーチュネート・ブレッシングスをセカンド・レシポンスとは別に設立している。詳しい情報は下記を参照:


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「Second Responders An Interview with William Spear」は日本CI協会・編集部が和訳したものです。

GOMFの連絡先は下記となります。

E-mail:gomf@earthlink.net

英語版を読みたい方は下記のウェブサイトをご参照ください。